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陶芸家紹介

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陶芸家紹介

濱田 庄司(はまだ しょうじ 1894~1978)

陶芸家。本名は象二。神奈川県川崎生まれ。
15歳のときルノアールのことばに触発されて工芸を志し、1913年(大正2)東京高等工業学校窯業科に入学。
板谷波山(いたやはざん)に師事し、先輩の河井寛次郎を知る。
のち京都市立陶磁器試験場に入所し釉(うわぐすり)の研究を行う。
20年、在日中のバーナード・リーチに同行して渡英し親交を深め、24年帰国後、栃木県益子(ましこ)に築窯。
同地の陶土や釉薬(ゆうやく)を基本として無作為ともみえる加飾を重厚な器に施した質朴雄勁(ゆうけい)な作風を確立し、35年(昭和10)には独自の様式を完成した。
また、大正末期より柳宗悦(むねよし)らと民芸運動を推進し、62年(昭和37)には柳の後を継いで日本民芸館館長に就任。
55年には民芸陶器の重要無形文化財保持者に認定され、68年には文化勲章を受章。
益子に没。
多くの作品は同地の益子参考館に陳列されている。

島岡 達三(しまおか たつぞう 1919~2007)

陶芸家。東京出身。父は、組紐師島岡米吉。師は、浜田庄司。
1938年(昭和13) 府立高等学校 (旧制)在学中に日本民藝館を訪れ、民芸の美に目ざめる。
1941年(昭和16) 東京工業大学窯業学科卒業。
1954年(昭和29) 益子に築窯。
1964年(昭和39) 日本民芸館賞受賞。
1980年(昭和55) 栃木県文化功労章受章。
1994年(平成6) 日本陶磁協会賞金賞受賞。
1996年(平成8)5月10日 民芸陶器(縄文象嵌)で国指定の重要無形文化財保持者(人間国宝)認定。
1999年(平成11) 勲四等旭日小綬章受章。
2007年(平成19) 12月11日没・享年88

加守田 章二(かもだ しょうじ 1933~1983)

大阪府岸和田市に生まれる。
京都市立美術大学工芸科で富本憲吉氏に師事し、造形性を追及する作陶の態度を学ぶ。
1956年の卒業後、茨城県日立市の大甕陶苑を経て、1958年栃木県の益子に移ったのち独立し、陶芸家としてデビュー。
作品発表を続けながら徐々に力を発揮し数々の賞を受賞、1967年には作陶家としては初の高村光太郎賞を受賞した。
しかし表現に対するより深い探究心に駆られた加守田は、1969年には岩手県遠野に釜を築いて隠棲、家族や周囲と隔絶した厳しい環境に身をおいて一途に現代陶芸の新しい分野に挑戦し、「曲線彫文壺」や「彩陶壺」など次々と斬新な作品を世に送り出した。
こうした加守田の陶芸は日本陶芸界の衝撃的な反響を呼び、現代陶芸の旗手として人々の期待を集めていたが、1980年頃から病に伏し、83年2月に49歳という若さで逝去した。
土という素材の根源的な生命感と独創的な造形精神がみなぎる加守田の陶芸は、既存の陶芸の枠組みを超越し、陶器の存在をより普遍的な造形美へと昇華させたのであり、今日においてもなお後に続く陶芸家たちに強烈な影響を与え続けている。

木村 一郎(きむら いちろう 1915~1978)

大正4年 益子町に生まれる。
祖父の営む郵便局を手伝う一方、昭和12年に京都の商工省陶磁器試験所に入所。

昭和20年 陶芸一筋に。

昭和21年 築窯独立。現代陶芸展特選など他多数受賞。

昭和53年 死去。

佐久間 藤太郎(さくま とうたろう 1900~1976)

大正-昭和時代の陶芸家。
明治33年8月10日生まれ。
栃木県の益子陶器伝習所でまなんだのち、大正13年益子に開窯した浜田庄司に師事。
民芸風の陶器を制作した。
14年商工省工芸展に入選。
昭和24年国画会会員となり、34年県文化功労章。
昭和51年1月20日死去。75歳。
栃木県出身。

伊藤 赤水(いとう せきすい 1941~)

昭和16年 新潟県佐渡に水焼窯元4代伊藤赤水の長男として生まれる。
京都工芸繊維大卒。
3代(祖父)伊藤赤水のもとで無名異焼 を学ぶ
52年5代伊藤赤水を襲名。数々の作品製作。

昭和55年 日本工芸会奨励賞受賞
日本陶磁協会賞受賞など他多数受賞。

平成15年 重要無形文化財〈無名異焼〉
       保持者(人間国宝)に認定

村田 元(むらた げん 1904~1988)

明治37年石川県金沢市に生まれる。
京都の関西美術院にて洋画を学んで後東京は遊学、洋画並に商業美術の製作に従事。
昭和19年浜田庄司先生に入門し陶技を修行。
昭和29年益子町北合谷に登釜を築き自営、今日に到る。

現代陶芸展に入選
国展に入選
銀座松屋にて個展
三軌会工芸部委員
栃木県芸術祭工芸部委員

河井 寛次郎(かわい かんじろう 1890~1966)

陶芸作家。島根県安来(やすぎ)の生まれ。
東京高等工業学校窯業科を卒業して京都市立陶磁器試験所に入り、ここで浜田庄司(しょうじ)を知る。
1920年(大正9)に京都市五条坂に開窯し、翌年の個展において大いに注目された。
初め中国・朝鮮の古陶磁の技法に倣ったが、反省し、24年に浜田の仲介を受けて柳宗悦(むねよし)を知り、いわゆる民芸へと傾斜していった。
以後、浜田と民芸派陶工の双璧(そうへき)をなし、翌年民芸美術館の設立運動が具体化すると参加し、その作陶成果は29年(昭和4)に東京・高島屋での個展で発表された。
黒褐釉(ゆう)、鉄絵、辰砂(しんしゃ)、染付、白化粧土、低火度な鉛釉などを使って奔放自在な草花や動物文を表した重厚な日常器皿がそのねらうところであり、民芸の具体像を完成させた。

金城 次郎(きんじょう じろう 1912~2004)

那覇市生まれの陶芸家。
国の重要無形文化財「琉球陶器」保持者(沖縄県で初の人間国宝)。
子の須美子、孫の宮城三成も陶芸家。

1925年(大正12)新垣栄徳の製陶所に入門、壷屋の製陶に従事。
1945年(昭和20)沖縄戦終結。
1946年(昭和21)那覇市壺屋に築窯。濱田庄司、河井寛次郎らの指導の元で壺屋焼を守り発展に努める。
1972年(昭和47)沖縄本土復帰。読谷村に移住。
1985年(昭和60)4月13日、人間国宝に認定、沖縄県功労章受賞。
1993年(平成5)勲四等瑞宝章受賞。
2004年(平成16) 没。享年92。

北大路 魯山人(きたおおじ ろさんじん 1883~1959)

陶芸家、書家。本名房次郎。
明治16年3月23日、京都・上賀茂(かみがも)神社の社家(しゃけ)の次男に生まれる。初め西洋看板のペンキ屋を開く。
1904年(明治37)東京に移り、同年11月、日本美術展覧会に千字文(せんじもん)の書を出品して一等賞を受け、以後書に打ち込み、29歳からは篆刻(てんこく)も習い始めた。
陶芸に手を染めたのは15年(大正4)からであるが、19年には古美術商を営み、翌年春にはそのかたわら会員制の「美食倶楽部(くらぶ)」を発足させ、さらに25年には東京麹町(こうじまち)の星岡(ほしがおか)茶寮の顧問兼料理長として料理・食器の演出に携わるなど、天衣無縫の生活を続け、美的生活に耽溺(たんでき)していった。
生涯のなかで書と陶磁器にとりわけ鬼才を発揮した彼は、専門陶工ではない趣味人ならではの当意即妙な意匠の世界に新境地を開いた。しかし基本的には、中国・朝鮮・日本の古陶磁の様式の範囲を離れるものではなかった。
窯は北鎌倉の山崎に築き(1926)、星岡窯と称した。
昭和34年12月21日死去。

田村 耕一(たむら こういち 1918~1987)

昭和時代の陶芸家。
大正7年6月21日生まれ。
富本憲吉に師事。
昭和28年郷里の栃木県佐野に築窯,日本伝統工芸展などで活躍した。
鉄絵の技法を基本にして独自の作風をきずき、イスタンブール国際陶芸展グランプリ(42年)など、国内外での受賞多数。
51年母校東京芸大の教授。
61年鉄絵で人間国宝。
昭和62年1月3日死去。68歳。

山本 陶秀(やまもと とうしゅう 1906~1994)

陶芸家。岡山県生まれ。本名、山本政雄。
15歳で陶芸の道に入り、京都の楠部弥弌(くすべやいち)に師事。
1933年(昭和8)備前(びぜん)に窯を築いて独立。
1955年花入れが日本伝統工芸展に初入選。
1956年岡山県重要無形文化財に認定、1987年国指定重要無形文化財(人間国宝)に認定された。
端正な形、ろくろの技術は比類ない完成度をみせ、茶器を得意とし「茶陶の陶秀」とよばれた。
1959年ブリュッセル万博グランプリ金賞。
1972年岡山県文化賞受賞。
1976年紫綬褒章(しじゅほうしょう)受章。
1977年毎日芸術賞受賞。
1981年紺綬褒章、1982年勲四等瑞宝章を受章。
1994年(平成6)4月22日没。